Monthly Archives: 3月 2015

働くべき筋肉のリハビリ法 と 発声の仕方はちがう

それは、欠点となっている弱い筋肉のリハビリが目的であって、
発声の仕方ではないことをしっかり理解しておくことが必要

それを発声の仕方と自覚してしまうと、
「きめられたやり方」にはまって行くことになる
たとえば高音に欠点がある場合に、発声のポイント(支え)を変えると

上手く行く場合があるが、それも部分的なリハビリの効果が表れたに過ぎず
それを本人が「高音の発声の仕方」と理解してしまうと、
高音においてはいつもそのやり方をするようになる。

このような思い込みによって順次やり方をきめて行くと、
次第に発声の自発性が失われ、やがては発声器官のすべてが人為的操作で

なければ働かない・・そういう癖がついてしまう。そういう歌からは
もう発声の技術しか聞えてこなくなる。参加している不要な筋肉はどの筋肉か、

必要な筋肉のいずれが未熟かを、その声から察知できるかどうかが先決問題
このことに関しては指導者の耳にかかってくると言わねばならないが、
そのような優れた耳を持つ指導者がそこにもここにも居るわけではない。

しかしながら、ごく普通の指導者と、ごく普通の生徒において、どこまでの
ことが為し得るか・・それがテーマ。お互いに自分の不完全さを知ることに
よって、良い方向へと進んで行けることは多いに有り得ると思う。

発声に参加する癖が付いた不要な筋肉の働きを除くことは簡単ではない。

発声の欠点は (1)働くべき筋肉の未発達
       (2)働いてはならない筋肉の参加が原因で、大抵は両方が複合
この時、(2)を取り除くことから先に改善すべき、
参加すべきでない筋肉の働きが、
働くべき筋肉の活動を邪魔しているケースが多い。
しかし、(2)を改善する、すなわち働いてはならない筋肉を
参加させない練習によって、一時的に歌唱力はグンと落ちる。
そのことによって働きべき筋肉の未熟さがはっきりと表れるから。

発声に参加する癖が付いた不要な筋肉の働きを除くことは簡単ではない。
数ヶ月あるいは1~2年に及ぶかもしれない。
そうなると本人はその練習に疑いを持つようになる。

歌に限らず、舞においても、あるいはスポーツにおいても同じことが言える。
もともと素質に恵まれた人は、習いつつも実際にはかなり我流でやって行く
ところがある。

素質というものは、生理的に自然に適っていることが多く、
したがって我流でかなりいいところまで行ける。
良い悪いの問題ではなく、そうなり勝ち。
我流ゆえに欠点つまり不要な筋肉の動きも多くなって行くので、
ある段階で大きな壁に当る。

そういう時に、初心に戻って基礎をやり直す練習をし始める。
しかし、たとえばフォームを直す練習をすると、どこか力が入らない、
気が入らない・・・精神的にも不安が募ってくる。
改善方法は正しくても精神的に潰れてしまうと元も子もない。

そこで、(1)の練習すなわち未発達の筋肉をリハビリつつ、
徐々に(2)を取り除いて行く方法が現実的にはベター。
必要な筋肉の活性化と不要な筋肉の働きの除去が共に順調に進めば、
改善のスピードは倍増するはず。もちろん理想的に進んだ場合であって、
現実には進退を繰り返しつつ進展して行くことになる。結果的には
改善の期間が長引くかも知れないが、心理的にはあまり不安に陥らずに済む。

ヴォイス・トレーニングの発声器官の解明は

「盗むべきもの」を発声を学ぶすべての人に明示してくれたと言える。

それまで知らなかった、気が付かなかった
発声器官の筋肉の存在、性質、働きを知り、その筋肉を意識的していると、
その筋肉の存在や動きを感じられるようになる。

意識していない場合、その筋肉が働いていなくても、
あるいは不自然に働いていても、そのことにはまったく気付かない。
知ることによって、それまでは大まかな体感で発声していたものが、
次第に詳細で具体的な体感をもって発声練習できるようになって行く。

体感覚が細やかになれば、聴覚も自ずから細やかになって行くもの。
それまで何となく聴いていた指導者や優れた人の声から
発声器官の様々な筋肉の動きを聴き取ろうとし始める。
そして自分でもやってみよとする。

つまり、この段階において「盗むべきもの」が具体的に認識できる。
そうなれば、しめたもの。発声練習に明確な課題を持てるようになり、
やがて、声の中のひとつひとつの要素と連結している発声器官の筋肉を、
自分の意志で動かせるようになって行く。

声帯模写は声の特徴や癖を真似るものだが、ここでいう声を真似るのは
それとはまったく違う。発声の仕方を真似るという意味。
したがって、舞においても、歌においても、当然師に似てくるわけだが、
模写とは違った似方になるはず。

更に言えば、伝統的な分野では結果的にその分野の者の発声は皆似てくる。
たとえばオペラ歌手は皆オペラ歌手の声をしている。
能楽の声も、民謡の声にも同じことが言える。

知識は練習の役に立つか?

体感というレーダーの性能を高めるには、
実際にどのような訓練をすればよいのか。
昔から言われることは「師の芸を盗む」、
つまり指導者の舞い方、歌い方を真似る中で、指導者の筋肉の使い方を悟り、
それを自分のものにして行く・・・という方法。

もちろん指導者だけではなく、優れた人の芸からも学び取る・・・
こういうのが従来の方法。
舞の場合には、体内の筋肉の動きは姿形となって表れるので、
指導者や優れた人の舞の外見を真似ることによって、
次第に体内の筋肉の使い方を悟って行くことができる。

この方法を発声に置き換えると、
指導者や優れた人の声を真似る(声帯模写ではありません)ことによって、
次第に発声器官の筋肉の使い方を悟って行く・・・という方法になる。
この方法が今も昔も体感覚の訓練法の基本であることに変わりはない。

ただ、方法は理解できても、実行することは容易なことではない。
いわゆる「勘のいい人」はどんどん盗んで行けるようになるが、
多くの人は「何を盗すむべきか」が分らない。
その結果、盗まなくてもよいものを盗み、肝心なものは盗めない・・という
ことになって上達が遅れる。

もし、盗むべきものが分っていたら、こういう失敗をせず、
「勘のいい人」と同じように進んで行ける。

心が声に表れる発声器官のプロセスは!

人間が作れるものではなく本能的なもの。

すなわち発声器官の自然な営みだけが心と声を連結させ得る。

人為的な発声法が
心と離れたものであるのは当然のことであり、

技術的な歌声は、
上達すればするほど心から遠ざかってしまう。

歌うことにおいて心の表現が難しいと感じるのは、
人為的発声法に従っているせいのため。

そこで、改めて声と心を繋ぎ合わせる・・・
訓練をしなければならなくなる。

「心が表れているが如き響きを作る」という更に
難しい技術によって達成しようとする。

このことは非常に巧みに為されると、
歌声が本当に心から生じているように聴こえるので、

そこまで行けば同じことなのかも知れないが、

心を声に表すという、もっとも原始的なことを実現する為に、
こんな遠回りをしなければならない発声法はおかしい